是非、読んでみて下さい。好評中です!


『 在日の思い(その1)』

 

「太田君は、朝鮮人なんやで。」 小学校3年生のときに、私がクラスの友達と一緒にその子の家で遊んでいるとき、その子の祖母が私の前でその子に発した言葉でした。

 私が日本人ではない、ということを生まれて初めて感じたときでした。当時は、まだ韓国籍も朝鮮籍も区別なくその呼び方は「朝鮮人」という言葉でした。
 その後、すぐに私は家に走って帰り、母に言ったのです。「なんで、僕は朝鮮人なんや!!!」

 このことは、あれから何十年以上も経つ今でも忘れることができません。自分の子供にそう言われた母親の心の中はどうだったのでしょう。私も成人した子供を二人持つ親となりましたが、いまだに、母親にそのことを聞くことはできません。

 在日韓国・朝鮮籍の人達は、私だけでなく、その時期は異なるにしろ、遅かれ、早かれ、またその状況が多少違えども、誰もが経験するひとコマであると思います。また、その経験からくる思いは、自分の両親であろうとも相談できない、とてもやるせない思いです。そこには、子供ながらも両親の血を引き継ぐことにより、まさにそれが原因となって、このいやな思いをすることになったのだと、感じるものがあったのかも知れません。

 「今度の会社の慰安旅行、海外らしいよ!」日本がバブルの頃は、よくこんな会話がありました。このような会話を聞いて、ドキッとされる方がおられるのではないでしょうか?そうです。20年程前までは、在日でパスポートを持っておられた方は、まだ少なかったですし、たとえパスポートを持っていたとしても、韓国のパスポートを持って、会社の同僚と一緒に慰安旅行に行くとなると、それなりの覚悟が必要になります。

 こうしてパスポートが問題となるときに、またもや幼い頃のいやな思いに再び向き合わなければならないのです。いまや、韓流ブームだ、という時代ではありますが、だからと言ってそれだけで在日に対する社会の見る目が大きく変わるものではないのです。 

 私が、この「在日の思い」をこのホームページで語ってみようと思ったのは、帰化申請の依頼を受ける過程で、在日の多くの人が、特に若い人達が、その思いを一人で胸に秘めてその吐き出し口を見つけられず、また、その思いを語ることすらできずにじっと耐えているのを感じるからです。

 私は、小学校4年のときから、自分の意思に関係なく民族学校(朝鮮学校)へ行く機会がありました。結局それから4年間通ったおかげで、簡単な朝鮮半島の歴史や地理、音楽、それに韓国朝鮮語を学ぶことができました。そして、何よりも自分と同じ国籍で、同じ境遇の人達がこんなにもいるんだ、ということを知ることができました。その経験は、私がその後を生きる上での大きな支えとなってくれたのは事実です。

 しかし、そのような機会さえもなかった多くの在日は、私以上に、何の支えもなく今日まで生きてこられて、今だその思いを遠ざけようとしている方がたくさんおられるのです。

 そんなことから、私のような半人前の人間ではありますが、私なりに「在日の思い」を語ることにより、「あっ、私も同じだ!そうなのか。私と同じように考えている人がいるんだ!」と、少しでも気持ちを楽にして頂ける方がおられれば、との気持ちから、このコーナーを追加してみました。

 少しだけですが、私の「在日の思い」、よければ是非、一度読んでみて下さい。

 

中学校時代

 私は、中学2年生から、また日本の公立中学校に転校しました。住所も変わっていないのに、学校だけが変わるわけですから、クラスの何人かは、私が韓国人だということを知っていたと思います。こちらとしては、特にそのことを知って欲しいとも思わないけれども、無理してまで隠したいというわけでもなく、かと言って自分から言うのはもっと変だし、おまけにクラスの誰も私にそんなことは聞かないし、結局、自然に任せるしかなかったのです。

 それでもクラスの一人や二人は、いじめなんかで罵声を浴びせるときは、もちろん私にではないけれども、また、私がそばにいないときですが、「おまえ、くさいなぁ。朝鮮人ちがうけっ。」「ちゃうわ。」という会話も聞くことが時々ありました。

 そんなある時、歴史の授業中でした。先生が「朝鮮という国は、いまだかつて他国を侵略したことのない国なんですよ。」と言ったのです。突然の考えも及ばない言葉に、驚くと共に私の胸はあつくなりました。「そうなんですか!」と喜びの声が出そうになるのをじっとこらえながらも、周りのみんなの視線が気になり、何でもないような顔を作っていたものでした。

 それでも、私はそれなりにスポーツが得意だったので、クラスなどの友達は多かったほうだと思いますし、そのおかげか、私に面と向かって「朝鮮人」という子は誰もいませんでした。と言うより、おそらくそのことを知っていたと思うのですが、ほんとうに仲のよい友人も数人いました。そんな友人に、自分から在日であることを伝えたのは、たしか大学時代だったと思います。

 中学時代の大きな出来事に、初めて自分で「外国人登録」をするために、平日の昼間に役所に行かなければならなかったことがあります。在日の全員が経験することです。たしか、私は学校には遅刻をして行ったように思います。もちろん、クラスの友達らには、何らかの別の用事で遅刻したと言ったはずです。

 当時は、指紋を押さなければならなかったのですが、私はそんなことに抵抗を感じるよりも、早く手続が終わってこの「外国人登録課」から離れたかったものでした。今もほとんどの役所では、外国人登録課といっても周りから丸見えだし、大人になったとしても、どんな知り合いに見られるかも知れない、といった気持ちで行かれる在日の方も多いと思います。

 

高校時代

 高校は公立高校だったのですが、いろんな中学校から生徒が集まってくるので、私の中学時代の転校のことを気にする必要はほぼなくなりました。しかし、反面、また新しくできる友人にも在日であることを黙っていることの罪悪感みたいなものを感じていたのです。しかし、基本的には中学校時代と同じように、自ら「自分は朝鮮人(韓国人)なんや。」と言い出だす気にはとてもなりませんでした。

 そんなある時、不思議なことに中学校時代と同じような事が起きたのです。それは世界地理の時間だったと思うのですが、先生が「朝鮮」という漢字には「朝が鮮やかな国という意味があるのですよ。」と言ったのです。それ以外は何をおっしゃったのかよく覚えていないのですが、その感動と周りの視線を気にする自分は、中学校時代のそれと全く一緒だったことを覚えています。

 高校時代は、歴史や地理をさらに勉強する過程で、また、本屋でいろんな読み物(たとえば岩波文庫)などがあることに気づいてきた私は、在日がなぜ日本に住んでいるのか。つまり、自分の祖父達は、なぜ日本に渡ってきたのか。何故、朝鮮半島は38度線で分断されたのか。日本は、なぜ朝鮮半島をを植民地にしたのか。なぜ、日本人は朝鮮人を差別するのか。と言った疑問を知りたいという欲求がどんどんと積もり積もった時期でした。 本屋に行っては、周りに知り合いがいないのを確かめて、さっと在日の歴史に関係ありそうな本を手に取っては、目次を見ながら、焦りながら、目的とする本を探したものでした。当時は、インターネットなどは無く、そのような知識を得るには本しかなかったのです。ようやく買った本にしっかりとカバーを付けてもらい、家に帰るまで友達などに会わないようにと気を使ったものでした。

 

大学時代

 大学時代は、本名で行ったのです。それは、私が自ら望んでそのようになったわけではなく、入学願書の書き方で、うまく通称名と本名を記入できなかったせいだと思うのですが、結果的に本名「徐 重夫」で学生名簿に登録され、当然に学生手帳もその表記でした。最初は、すぐに訂正してもらおうと思ったのですが、それを説明するのが何か後ろめたい気持ちがして、しょうがないか、とあきらめてしまった結果なのです。

 語学なんかの教養科目では必ず出席を取るので、私の場合は「ジョゥ」と大きな声で先生が呼ばれたのです。もちろん最初は、クラスのほぼ全員が「誰や」と言わんばかりに、教室の中を見渡していました。

 私も開き直って「はい!」と大きな返事をすると、どこからか「ジョーやて。あしたのジョーみたいでカッコイイ名前やなぁ。」という声が聞こえてきたのです。その後、そいつとは、友達になりました。もちろん、その後は、卒業まで周りのみんなも、「ジョ」と呼んでいました。

 少しめずらしいと思うのですが、私の大学では、1、2回生の間、担任の先生が付くのです。そして、入学してから間もなく、その先生と各学生との個人面談があったのです。私がノックをして先生の研究室に入って座ったところ、すぐに「徐君は、自分の国の言葉はしゃべれるのか? もし、しゃべることができないのであれば、先にそれを勉強するべきだよ。」と言うのです。

 一瞬、思ってもみなかった言葉に、何も返事をすることができなかったくらいです。「私は、韓国朝鮮語はある程度はしゃべったり、読んだり、書いたりすることができます。」初めて胸を張って、自分が在日であり、言葉もできるのだということを他人に話した経験でした。

 

サラリーマン時代

 大学時代は、本名で行った私でも、やはり就職となると全く違っていました。もちろん、通称名の「太田」で申し出たのです。その頃はまだ小さな会社だったので、社長や上司、総務の方たちは、もちろん私が在日であることを知っていたのですが、それ以外の人達は、当然知らないわけです。

 また、いちからこのことに神経を使わなければならなかったのです。知れてしまえばそのほうが気持ちが楽になれることはわかっていたのですが、こちらから言い出すことは、少々仲良くなっても切り出す程の勇気と理由が見つかりませんでした。やはり、このときも成り行きに任せるしかなかったのです。

 それでも上司らは私が在日であることを知っていたので、もちろん、そのことで差別するような方は一人もおられませんでしたが、私自身は、仕事を頑張って、認められることによって、差別を受けないようにしよう、という思いが心のどこかにあったと思います。

 その甲斐あってか、私の結婚式が決まったとき、社長がじきじきに「太田君、都合があって結婚式に行けなくて申し訳ないなぁ。・・・韓国の女の人は結婚しても姓が変わらないそうやなぁ。」こんな言葉を聞けて、ほんとうにありがたく感じたものでした。

 結婚式は、お見合いだったこともあり、韓国朝鮮式だったので、会社の上司や友人、それに中学時代からの友達らも、私が在日だということは知っていたとしても、チョゴリを着た嫁さんの姿や韓国の歌が流れたときは、やはり、珍しさと驚きがあったのではないかと想像します。

 しかし、その会社に約8年半お世話になりましたが、すばらしい上司や友人、仲間に恵まれて、「在日」であることにいやな思いをすることは一度も無かったと記憶しています。

 

行政書士となってから

 行政書士になった後も、帰化申請を業とすることに正直少し抵抗がありました。同じ在日が減っていくことに何か寂しさのようなものを感じたのです。

 しかし、周りの声を聞いてみると、他の行政書士や弁護士に頼んで、帰化申請に常識を外れた高額な金額を請求されたり、途中で手続を放っておかれたり、在日の歴史や経緯をわからずに失礼な質問を受けるなどのことがある、ということを知ったのです。

 厳しい法務局の壁を前に、多くの在日が困っている状況に、在日である自分が少しでも同じ在日の役に立てるのではないかと考えるようになったのです。

 私の事務所に若い在日の方が、多く依頼されてこられます。「先生、今度、日本の人と結婚をするのです。相手のご両親が帰化をしたならば結婚を許すと言っています。」悲しいことですが、このようなケースはほんとうに多いのです。私は、同じ年頃の子どもを持つ在日の親として、ほんとうに悲しいことだと思います。

 「よし、一日も早くしっかりと帰化が許可されるように、頑張って申請の準備に取り掛かりましょう。そして、幸せになって下さい!」私が、若い在日の彼女や彼を励ますことのできる、唯一の言葉であり、少しでも役に立てることだと思っています。

 帰化をする人の理由は、人それぞれです。その人の育った時代や環境、それに在日の「思い」がそれぞれに異なるのです。帰化を非難していた人が、10年後には自分の子供に帰化を薦めていた、ということもあります。人の心や環境は変わることがあるのです。

 私は、帰化や日本人との婚姻で子供が日本国籍を選択すること等により、長い将来に「在日」の存在はほんの一部を除いて遅かれ早かれ無くなるだろうと思っています。それは、私達在日は、将来もこの日本でしか生きていけない、ということを、多くの在日がわかっているからです。

 だからこそ、今「在日の思い」を記録に残しておきたいのです。

 

おわりに

 ここでの「在日の思い」は、私自身の体験とそのとき抱いた思いを正直に書いたものです。しかし、その一部でしかありません。ここには書けなかったもっとたくさんの「在日の思い」があることもわかって頂きたいと思います。

 先にも書きましたように、「在日の思い」は、人それぞれに異なります。自分の思いを大切にして、また、それを生かして、是非、前に進んで頂きたいと思います。

 

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  私は、いったいどこの国の人間なのだろう。韓国のパスポートを持っているけれど、ほんとうに韓国人だと言えるのだろうか。それとも朝鮮人なのだろうか。日本で生まれ育ったけれども、日本人でもない。

 そうすると、やはり私は、領土も国家も持たない「在日韓国朝鮮人」なんだろうと思う。

                                                         

                  2009年12月   徐 重夫(太田重夫)

 


『 在日の思い(その2)』

 

 最初に書いた「在日の思い」に、本当に多くの人から「共感しました。」、「涙が出てきました。」、「元気をもらいました。」、「気持ちが楽になれました。」等々、うれしいお言葉を頂き、自分でもこれを書いてよかった、と思っていました。

 しかし、時の流れは驚くほど速く、当時、韓流ブームの最中(平成21年頃)に書いたその内容も、今となっては、ほんとうにそんな頃(韓流ブーム)があったのかと、疑ってしまうほど、日本社会全体に嫌韓に混ざった在日への反感の空気が漂っているのを感じます。

 そこで、もう一度、今度は今現在のこの日本社会で、私が感じる在日の思いを書いてみようと思いました。

 そして、その内容が、同じ在日の人たちの心に伝わることを願い、たくさんの思いの中からのほんの少しですが、自分の心の思いを書いてみようと思います。

 

日本社会の変化

 平成23年の東日本大震災は、日本社会を大きく揺さぶりました。

 テレビで中継されるその悲惨さは見るに耐えず、テレビの前を離れたことを今でも記憶しています。

 たとえ震災の場所から遠く離れていたとしても、取り戻すことができない現実を突きつけられて、もちろん国籍など関係なく日本中に住む人々の誰もが、深く心の傷を負ったことだと思います。

 

 そんな傷ついた日本社会にあって、皆が期待した民主党政権の不甲斐無さに腹がたち、さらに失われた20年というデフレスパイラルが続いていた経済状況の中で、対照的にテレビを覆い尽くす韓流ブームやサムスンの世界的飛躍のニュース、そして世界第2位の地位を確立した中国経済の成長といった状況に、日本人としては、もやもやした思いがあっただろうと推測します。

 日本で生まれ育った在日であれば、そんな日本人のつらい思いを感じ取ることができるのは当然だと思います。

 しかし、そんな日本人の心の痛みが大きな風船になっていたときに、その風船に針で突っついてしまったのが李明博大統領の竹島上陸と天皇への謝罪発言だったのではないかと私は思っています。

 

 そこで、だからこそ、そんな傷を負った日本社会が救世主として望んだのが、日本のトップとしての強靭な日本再生を唱えた安倍総理ではないでしょうか。

 しかし、そこから先には、置き去りにされた在日の姿が見えるような気がします。

 

韓国社会の変化

 韓国社会もここに来て、大きく変わっているのではないでしょうか。

 世界的な飛躍を遂げたサムスンや現代自動車の業績に影が出始めると、急いで発展した経済成長の反動として、それをカバーする国の底力が乏しく、トップの適切な国策を講じる間もなく、あの悲惨なセウォル号の沈没事故が起き、韓国人としての誇りを一度に削がれた思いではないかと思います。

 何故なら、私にもこの事故の船長に対する怒りと、その船長と同じ血を引く韓国人である自分への不甲斐無さに、一時毎日苦しい思いをした時期があったからです。

 

 そうしたショックに立ち直れず、内部紛争に明け暮れる韓国社会もまた、いつまでも戦後を引きずったまま靖国問題や慰安婦問題などにその不満を向けようとしているのかも知れません。

 こうした韓国社会の変化にも、当然には在日は共有できず、韓国籍であっても何か取り残されたような気がします。

 

在日の存在意義

 こうした日本社会や韓国社会の変化に、何かしらどちらにも入りきれない、そんな思いを在日の人たちは持っているのではないでしょうか。

 それは、何故かと言うと、両方の国を思う複雑な気持ちがあるからだと私は思うのです。それでいて、どちらの国に対しても選挙権を行使する機会に恵まれず、国策に参加している気持ちも乏しいのかも知れません。

 よく日本と韓国は無理して仲良くなる必要は無いのではないか、と言った意見を聞くことがあります。それは、日本に住んでいる日本人達や韓国に住んでいる韓国人達が自分たちの立場だけで考えれば、そうした単純な意見だけで済ませるでしょう。しかし、在日や在日の人と結婚している人達、そして韓国で住んでいる日本人達の立場からすると、是非とも仲良くやってもらいたいというのが多勢でしょう。

 

 だけども今の日本社会では、在日の存在意義やその存在そのものが希薄になっているのが現実だと思います。かつて60万人いた在日韓国朝鮮人も、36万人程(平成266月時点法務省統計から)となっています。

 在日としての日本人社会とのつながりも少なくなり、かつては、日本社会での地位向上のため、そして、韓国、北朝鮮との橋渡しとなり、いつかは祖国をよい国にし、必ずや祖国統一を果たすんだという在日一世達の思いは、今や昔話となってしまったように思います。

 そんな希薄になった在日が、日本社会の適度ないじめの対象となっているのでしょう。

 

 人は、自分が苦しくなると自分の下に人を作り満足しようとするものだと、学生の頃、部落に住んでいた日本人の友達が言っていた言葉を思い出します。

 

在日の将来

将来、在日は、知らず知らずのうちに日本社会に呑まれていってしまうのでしょうか。

 

 もし、日本がアメリカのような生地主義の制度を取っていたならば、自ら自由に日本国籍か韓国国籍、又は朝鮮国籍を選択し、その思いで生きていくことができたでしょう。

 しかし、自ら選んで日本に来たわけでは無く、知らないうちに日本に根付いた以上、そして、これからも日本社会で生きていくことを望む以上、静かに日本社会に入って行くのは自然のように思います。

 

 ただ、在日として今日まで生きてくることはそんなに簡単では無かったはずです。だからこそ、在日として何かを残したいという思いが私にはあるのですが、自分の力不足のせいで、今もしっかりとしたものを見つけることができずにいます。

 理想は、帰化をしても自分の出自をオープンにして、日本社会で堂々と生きていける姿だと思います。しかし、そうできる人もいれば、できない人もいるのです。在日でもその生まれ育った環境やそれぞれの思いが異なるからです。帰化をする思いは、人それぞれに違い、誰もそれを決して強制することはできません。もちろん、帰化をしないこともまた、在日のひとつの思いです。

 

 しかし、現実は、そんな在日の思いも日本社会や韓国社会などの国際情勢により大きく左右され、残念ながら決して自由に在日の思いをそこに反映することができていないような気がします。

 できれば、日本社会や韓国社会などに振り回されずに、自ら自由にこれからの道を選べる、そんな「在日の将来」が来ることを切に願う今日この頃です。

 

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 帰化をする在日、帰化をしない在日、そんなことは考えない在日、

      どんな在日であっても構わない。

 同じ苦境を生きてきた在日だから、その思いはきっと同じだろうと思う。

 

                  2014年12月   徐 重夫(太田重夫)

 


『 在日の思い(その3)』

 前に書いた「在日の思い(その2)」から10年近く経ってしまいました。「在日の思い(その3)は書かないのですか。」「是非、また書いて下さい。」といったお言葉を何度も聞いていましたので、是非書きたいと思いつつ、時があっという間に過ぎてしまいました。

 

 実は、数年前に、当時の総理大臣の「国際法上の侵略の定義は定まっていない。」との発言を聞き、この言葉にとても傷ついた在日としての私の思いを書こうとしていた時期がありました。あたかも日本が犯した「侵略」という意味に問題が無かったかのような発言に大変驚き、私なりにその当時の日本社会や日本の若者たちへの悪影響を、非常に危惧していたものでした。

 確か、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ所属の弁護士の先生がすぐに、「侵略」の定義は日本も採択している国連決議で規定されていることをネット上で発信されました。

  

 時々、「日本が韓国の植民地当時に作った道路や鉄道などにより、韓国は戦後急速に発展したので、日本に感謝しなければならないのでは。」といった的外れな声も聞かれますが、私はこう思うのです。「あなたのこの部屋を私がカーテンを付けたりしてリフォームしてあげるので、今後この部屋は私が自由に使い、あなたは別の部屋に行くなりして下さい。」と言われて「ありがとうございます。」と感謝する人はいないでしょう。

 

アウェイ

 我々在日は、生まれたときからずっとアウェイで生きてきています。そして、また、ずっとホームと言える所が無いままで生きてきています。アウェイのこの日本でどうして大きな声を出せるでしょうか。押し寄せる日本での嫌韓圧力に、選挙権すら無い少数派の在日はどうして勝つことが出来るでしょうか。多勢に無勢と言えるでしょう。

 しかし、それをよいことに、一部の人ですが、北朝鮮からミサイルが発射される度に、それとは関係の無い朝鮮学校の子供たちに暴言が吐かれるという、とんでもないことがこの日本社会で起きています。私が問題に思うのは、そのような一部の人を世間が許しているように見えるのです。

 今の北朝鮮が行っている、軍事力を誇示し、周りの国を威嚇するようなミサイルの発射は、その在日の朝鮮学校の子供や、在日の私も決してよいとは思っていないことを、是非、日本の人達にもわかって頂きたいのです。いや、実はわかっていても、そうは理解しようと思わない人もいるのかも知れません。

 どうか北朝鮮や韓国への不満を、その政策に関与もしていないアウェイで少数派の在日に向けないで頂きたいと思うのです。

 

 私達在日は、いったいこれからどのようにしてこの日本で生きて行けばよいのでしょうか。私たちの子供達や孫たちは、これからも平穏にこの日本で暮らして行けるのでしょうか。もし日本の人達にこう問いたとすれば、答えはやはり「いやなら、自分の国へ帰ればいいじゃないか」と言われる人も少なくないでしょう。

 我々在日が今この日本で暮らしているのは、けっしてそんな簡単で単純な理由によるものではなく、在日の一世たちも、日本による朝鮮への土足での侵略という行為が無ければ、自分たちの土地や仕事を奪われることも無く、わざわざ先祖代々に渡る大切な自分の故郷を捨てて、言葉もわからない日本へ仕事を求めてくることはそれほど多くは無かったでしょう。

 

「なんで、僕は朝鮮人なんや!」

 私が「在日の思い」(その1)で書いた、小学校3年生の時に母に向けて怒鳴った言葉です。今から振り返ると、私は今日に至るまでずっとこの答えを探し求めてきたような気がします。これからもですが。

 

 「あなたは、韓国人のようですが、日本語がとても上手ですね!」とおっしゃる方がおられます。今はまだ、本当の少しですが、在日の数も少しずつ減り、在日という言葉すら聞く機会が少なくなるだろうこれからの日本社会では、このような疑問を持たれる方が少しずつ増えていくだろうと思います。もし、在日のあなたがこのように聞かれたら、どのように答えますか? うまく答えられますか?

 

 この質問は、在日にとって、とても面倒くさく、とても厄介な質問なのです。思わず「そんなことも知らないのですか!」と言いたくなるところですが、そう言うこともできず困ってしまうのではないでしょうか。または、「いや、そう言われると、確かに私もうまい答えがわからないよ。」という方も多いのではないでしょうか。

 

反日教育

 日本では、よく韓国では反日教育を行っていると言います。しかし、私から言えば、特別に反日教育をしようとしているのではなく、ほとんどの場合が学校教育として歴史を教えているものであり、近現代史を教えようとすれば、どうしてもその内容が日本から受けた被害の歴史のページが多くなるのだろうと思います。是非、冷静に考え少しは理解して頂きたいと思います。

 

 近い将来、在日も、一般の外国人の中に含まれ、その言葉も使われなくなるかもしれません。

 そこで、今回(その3)では、私が幼いころから探し求めてきた「在日がなぜ日本にいるのか」という答えを導くための日本と韓国の歴史(植民地に至る過程、朝鮮半島からの来日、植民地開放後の日本での定住まで)の出来事について、在日の人達にも是非知って頂きたいとの思いで、わずかですが私が知っている範囲で、私の在日の思いを語ってみたいと思います。

 できる限り文献などは信用できる資料に基づいて書いていくつもりですが、もし、間違っている箇所がありましたら、ご指摘頂けたら幸いです。どこまでできるかはわかりませんが、項目を少しずつ増やして行ければいいのですが。それらの史実の詳細は、多くの労力を費やし完成された優れた論文や著書がたくさん在ります。是非、そちらをご覧になり勉強されるきっかけとなれば幸いです。

 

 まずは、韓国の王后を殺害した「乙未事変(いつびじへん)」について、そして、韓国の土地を奪い取った「土地調査事業」について、以下、私の思いを書いていきたいと思います。

 

乙未事変(いつびじへん)

 ある時、私がある勉強会に参加していたときのことです。大阪外国語大学(現大阪大学)を卒業された方が、勉強会が始まる前の雑談の中で、ぽつりとつぶやかれたのを偶然聞きました。「日本は朝鮮の王の妃(きさき)を殺害したんだよ。ほんと、とんでもないことだよ。」と力なくおっしゃり、少しうなだれた様子が今でも私の目に焼き付いています。

 「こういう方がおられるんだなぁ」と、私は心の中でつぶやくと同時に、「日本人であるこの方がこのようにおっしゃるのはきっと辛いんだろうなぁ」と思えてなりませんでした。

 

 「乙未事変(いつびじへん)」。「明成王后殺害事件」とも言われています。日本から朝鮮公使として赴任してきた三浦梧楼が、王后閔氏らが日本政府の政策を受け入れないことを理由に計画したもので、1895年(明治28年)107日夜から未明にかけて、日本軍守備隊を中心とした部隊が朝鮮王朝第26代国王の正妃である「閔氏」のいる景福宮を襲い、その王后(おうこう)を斬殺し、死体を焼き払った事件です。

 

 この事件を調べている中で、その資料が東京の宮内庁に保管されている「明治天皇紀8」 (宮内省が勅旨を奉じて編修した明治天皇の伝記(実録)である。明治天皇や明治時代の歴史を研究するための基本文献として活用されている_Wikipediaより) に記述があることを知りました。まだ、自分の目で確認出来ていませんが、是非、機会があれば、国会図書館での資料を閲覧したいと思います。

 

 この事件のことは、私も学生のときに学んだ記憶は無く、いつかわかりませんが、ずいぶんと大人になってから知ったと思います。襲撃した部隊に朝鮮人もいたとか、「閔氏」の政策が多くの人民を苦しめていた、とかいった言い訳はあるかもしれませんが、その暴挙の本質は1mmとて動くものではないと思います。そして、この事件のことからも、当時の日本が朝鮮半島を植民地とするために、どのような過程を経て、どのような状況で進めたのかを想像することができると思うのです。そして、在日の私もまた、「みんな、知っていますか。これ、とんでもないことだよね」との思いでいっぱいです。

 

 

土地調査事業

 日清戦争(1894年-1895年)に勝利し自信を得た日本は、朝鮮半島を足がかりに、大陸へと進出する野望は、夢ではなくなったのです。しかし、そのためにはまず、朝鮮半島を植民地とし、大陸進出の為の前線基地としなければならなかったのです。そこで、まずは朝鮮の土地を自由に使えるように、いわゆる日本国の基で国有地を増やして、日本からの役人や資本家、企業等を誘致し、日本人地主を増やして安く払い下げできるようにし、また、大陸へと続く鉄道を走らせるための土地取得ができるように数年に渡って準備を進めたのです。これが、いわゆる、朝鮮での土地調査事業といわれるものです。

 

 「臨時土地調査局」(日本が朝鮮でおこなった事業に土地調査がある。その目的は総督府の地税徴収を確実にすることを目的のひとつとし、1910年に開始された。総督府の下に臨時土地調査局が置かれ、土地調査令の基、土地所有権の調査、土地価格の調査等が行われた。_アジア歴史資料センターより)

 

 本土地調査の結果、地主の自由になるものになってしまった。また、多くの土地が国有地として編入された。代々慣習により耕作してきた多数の農民が証書を持っておらず、証書による裏付けがないとして国有地に編入された。申告されていない土地も国有地に編入された。その結果多くの小作農民が農地を失った。この土地調査事業を端緒として、日本人の土地取得が進んだ_Wikipediaより)

 

 私の母方は「慶州」金氏であり、あるときの法事で母方の伯父と席を隣にしたとき、「朝鮮にいたときは、家はそれなりに大きくて裕福だったので、家には5,6人のお手伝いさんが常にいたんだよ!」と自慢していたのでした。しかし、伯父が亡くなった今に思えば、どうしてそんな大きな家に住んでいた人が、自分の土地を亡くしてこの日本に渡って来たんだろうと思うのです。今は、そのときにもっと聞いておけばよかったとたいへん後悔しています。

 

 この土地調査事業が日本の植民地の基で行われたということは、つまり当時の朝鮮に力が無かったということでしょう。そうして、たとえ貧しくても自分たちの暮らしをしていた時代は過ぎ、土地や農作の仕事を失って、遥か遠い日本に渡って来たのが、我々の祖父たち在日一世たちと言えるでしょう。この事業のことを知ったとき、在日の私としては、素直に「そうだったのか。」と、とても悔しく残念な思いでいっぱいでした。

 

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  在日をこころよく思わない日本人がいる。

   しかし、在日のことを大切に思う日本人もいる。

 

       在日のルーツを持つ人達に伝えたい。 

    辛い思いをするときもあるけれど、元気出して行きましょう!

 

                   2023年6月    徐 重夫(太田重夫)